没後二十年。津軽三味線の巨星・高橋竹山の実像に迫る傑作ドキュメンタリー!
解説
視力を失い、ただ生きるために三味線と共に彷徨った高橋竹山――苦難の世を渡った津軽三味線の巨匠と名もなき北東北の人々の魂が、三弦の音色の中に蘇る!
沖縄宮古諸島の老人たちが記憶する古代の唄とかつての島の暮らしに焦点を当て、異例のヒットを記録した音楽ドキュメンタリー『スケッチ・オブ・ミャーク』の大西功一監督が、次なるテーマに選んだのが、故・初代 高橋竹山。約2年の撮影期間と約1年の編集期間を経て完成を見た本作では、残された映像や音声、生身の竹山を知る人々の言葉を拾いながら、彼の人生や心模様を呼び覚ましていく。また、この地に今も残る風習や文化、その背景に潜む受難の時代を生き、死んでいった名もなき人々にも目を向け、竹山の音に繋がるであろう津軽の原風景を浮き彫りにする。
この映画のもう1人の主人公が、二代目 高橋竹山。師、初代竹山に見込まれて長く付き従い、1997年に二代目を襲名した女性三味線演奏家である。しかし、津軽では彼女を認め、“竹山”と呼ぶ人は少ない。映画の中で、二代目は師のゆかりの地を訪れ、初代竹山を再確認していく。そして、かつて内弟子時代を過ごした津軽に久しぶりに帰って、師の墓前に花を手向け、襲名後、初となる青森市内での単独コンサートに臨む…。
津軽三味線の巨星・高橋竹山がこの世を去って20年。彼が生きた記憶は音色として、そして津軽三味線という北東北の生業として、今も息づいている。
初代 高橋竹山
明治43(1910)年6月18日、青森県東津軽郡中平内村(現・平内町)生まれ。幼少期に患った麻疹(はしか)が元で、半ば失明する。福祉もまだ十分に整わない時代、北東北の過酷な環境のなか、庶民の暮らしは貧しく、ただ生きていくために三味線を習い、門付け(民家の門前で演奏し金品をもらうこと)をしながら東北近県を彷徨った。昭和19(1944)年、青森県立八戸盲唖学校に入学し、鍼灸・マッサージの免状を取得。戦後、“津軽民謡の神様”と言われた成田雲竹の伴奏者として各地で興行するなかで、“竹山”と名乗るようになる。昭和39(1964)年に独立、津軽三味線の独奏という芸域を切り開き、全国に“竹山ブーム”を巻き起こす。昭和50(1975)年、第9回吉川英治文化賞、第12回点字毎日文化賞を受賞。昭和58(1983)年には、勲四等瑞宝章を受ける。平成10(1998)年2月5日、喉頭ガンのために死去。
セールスポイント
・津軽三味線の巨星・初代 高橋竹山。没後二十年の時を経て、その壮絶な人生が三弦の音色とともに蘇る!
・異例のヒットを記録した『スケッチ・オブ・ミャーク』から6年、映画作家大西功一が贈る傑作ドキュメンタリー!
「音即人(おとそくひと)、人即音(ひとそくおと)、竹山の生の迫力に圧倒されます。」-谷川俊太郎(詩人)
劇場パンフレット縮刷版(封入特典)の誤表記のお知らせとお詫び
劇場パンフレット縮刷版(封入特典)の「高橋竹山略年表」に誤表記がありました。
訂正してお詫び申し上げます。
誤:1972(昭和48年)63歳→正:1972(昭和47年)62歳
誤:1973(昭和49年)64歳→正:1973(昭和48年)63歳
作品情報
- キャスト
- 出演:初代 高橋竹山、二代目 高橋竹山、高橋哲子、西川洋子、八戸竹清、高橋栄山、初代 須藤雲栄、高橋竹童 他
- スタッフ
- 監督・製作・撮影・編集:大西功一『スケッチ・オブ・ミャーク』
共同プロデューサー:明山遼
音楽:パスカル・プランティンガ
関連情報
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